ご飯食べながら見るテレビ日記

30代男性、元出版・印刷系下請け零細企業社員の日記

【テレビ見た】『真田丸』がおもしろい。どうして結論のわかりきった歴史物語が脚本次第でおもしろくもつまらなくもなるのか

真田丸がおもしろい。

 

感想はひとによりけり。

つまらないと感じる方もいそうなことはなんとなくわかる。

 

わたしは初回の草刈正雄の演技にはまり、武田勝頼の描き方で「これは」と感じた。

 

 

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決め手は黒木華演ずる梅のキャラクタ―のつくり方で、これで見事にはまってしまった。

 

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わたしは今30代だが、20代の頃まで、結論のわかりきった歴史物語がどうしておもしろいのかわからなかった。戦国時代とか、どうせ家康が江戸幕府開いて終わりじゃん、と思っていた。

 

ここ数年、どうやら物語の面白さというか、物語が進んでいく過程で「面白い」という思いがこみあげてくるのは、物語の型や展開によるのではなくて、人の描き方から自然に生まれる思い入れなのだと思えるようになってきた。

 

事実だけ並べてもつまらない。典型は教科書で、歴史の教科書は初見でもない限り、あまり面白くないと思う。

 

だから、副読本として歴史系の読み物が教室の傍らに置かれるのだと思う。

 

それでも、その手のものは一回読めば十分と思っていた。

 

マンガでも時代モノはよくあるが、どこかにSF要素(タイムスリップとか)が絡んでいたり、バトルマンガの要素でくるんであったりした。つまりは、歴史物語というより、SFやヒーローチックな主人公を描くためのネタとして歴史が使われていただけである。

 

真田丸を見ていると、物語の型や展開だけが面白さではないと強く思える。

 

なんというか、20代の頃までは、走っているひとの姿を見て「どうして前に進むのか?」と問われたら、地面に踏み下ろした足で前に蹴り出すから、と答えてしまうような、見えているようで見えていなかった状態だったように思う。

 

走ることで言えば、地面に踏み下ろした足で前方に蹴り出しているのは物理的にもちろんそうなのだと思うが、実際に速いひとの感覚を聞いてみると、蹴り足ではなくて振り出す足で前方への推進力を生んでいるらしい。

 

物語で考えると、主人公がいかにドラマチックな運命を持って、大きな困難に立ち向かい、乗り越え、成し遂げるのかということだけが、物語を押し進める要素なのではないのだろう。

 

人が登場すると、言葉を発する。

言葉を発しないとしても、何らかのふるまいでメッセージを送る。

 

たいていの場合、人はたくさん出てくるから、その言葉やふるまいを受けとった人は感情を動かす。

 

時には、損得を考える。

 

感情によって動くか損得によって動くかは様々だけど、それらの組み合わせの妙は、物語の筋が同じだったとしても、登場人物のキャラの数と場面の数によってほとんど無限の描き分けができる。

 

その描き分けによって、見ているうちに「あぁ、そうだな」とか、「そういう言い方があったのか!」とか、「そういう表情になるのか」とか、自然に思ってしまう。

 

そう思ったとき、ほとんど同時に自分のなかに好みが生まれている。これは無意識で行われるので抗いようがない。

 

そしていつのまにか登場人物のいずれかに想いの偏りが生じている。

 

そのことは、想いを偏らせた人物が「次にどうなるか?」という逃れられない期待につながって、時間を忘れて映像を注視させる力となる。

 

つまりは、そこに至って自分のなかでは「おもしろい」と感じるようになっていて、これがいわゆる時間を忘れて楽しんでいるという状態なのだろう。

 

ほとんどの場合、想いを偏らせる対象は主人公であるはずだが、優れた長編ドラマの場合は主人公を含めた脇役との関係性でうまく偏りを出している気がする。

 

真田丸の前半では間違いなく真田昌幸を演じている草刈正雄を中心とした人間関係がドラマを強く前に進めている。4月から5月にかけて、それがじわじわと信繁(堺雅人)に移りはじめてきているのかもしれない。

 

 結局、家康は幕府を開くし、真田家が天下をとるわけではない。

 

それでも、登場人物の描き分けそのものが、見ているひとの心の中で物語を動かす力になっているから、結果がわかっていてもおもしろい。

 

ネタバレという言葉があるけど、本当はネタがバレていようがいまいが、物語の本質的な面白さには関係がないのかもしれない。

 

ちなみに、わたしが勝手に「なるほど」と思って自分のなかで物語を推し進めていた場面のひとつはこの回だった。

 

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真面目で保守的な信行(大泉洋)はどこか短期的なものの見方しかできず、信行との絡みからは昌幸の腹をきめさせる場面に移らない。「迷走」から抜けるのは、櫓の上から遠く信濃の山をみつめて変わらないものに想いをよせる信繁と言葉を交わす場面からだ。

 

信繁のセリフはこうである。

 

武田から織田、たとえ領主が変わってもこの信濃の景色は変わらない

まるで人間同士のいさかいを遠くで笑っているようです

私はこの景色が好きです
信濃は日本国の真ん中ですから
信濃に生まれたことを誇りに思います

父上の子として生まれたことを誇りに思います

 

このセリフのあと、昌幸は何度も「よき息子じゃ」と繰り返した。

 

 武田家の滅亡から信長の死にいたり、翻弄されつづける真田家の行くべき道を昌幸に決断させたのは信繁の思いだった。

 

ここに至るまで、昌幸は信行と絡むシーンが多く、そこで「迷走」を演出していたが、最後に信繁との絡みで「迷走」を抜けさせた。

 

本当に、よくできているなーと思った場面だった。